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2018年2月15日木曜日

夫 車谷長吉


夫 車谷長吉

Dマガジンで週刊誌を見ていたら、かねて敬愛していた作家、故車谷長吉(くるまたにちょうきつ)との生活を記した本、高橋順子の「夫 車谷長吉」の記事が載っていた。
以前にもその本の紹介を見かけていたが忘れていた。
その記事で改めて本の存在を思い出し、久方ぶりにすぐ読みたいと思い、アマゾンで調べようと「夫ブランク」を検索で打ち込んでみたら、なんとネガティブな言葉が続くこと。夫嫌い、夫浮気、夫死んで、夫いらいら、夫ストレス。
みんな妻は、夫が嫌なのだ。
私もかなりいやがられている節がある。
まず昼日中家に夫が居るのは、いままで昼間を自由にやっていた分、かなりのストレスになるだろうと思われる。
午後にやっているワイドショーやドラマの再放送が嫌いで、消せという私と見るという妻で諍いをたびたび起こしている。
また、昼食についても、今まで簡単にすましていたのに私が居るせいで何かと労力がかかるようになっていると思われる。
ある程度手出しはしてもそこは所詮、男の料理、後かたづけまではセットではない。
定年になり家に居るようになった夫はまず、妻から疎まれることは覚悟しなければならないのかもしれない。
当然、例外もあるだろう。世の中には本当に仲のよい夫婦もいる。
お互いに慈しみあい、互いを思いやり尊敬しあい、堅い信頼で結ばれた夫婦。
おとぎ話ではなく、そのような夫婦が居るのだろう。実際に。
すっかり話題がそれた。
本に関しては早晩入手して読みたい。
本当にここのところ読みたい本に出会えていない。
そして、よく聞く夫からの妻への思い「退職したら、いままで家を省みなかった分妻孝行をしたい」という思い、それは妻はおそらく期待をしていないし、下手にべたべたされたくもないようだ。
検索の結果が雄弁に物語る。

2018年2月14日水曜日

模様替え


模様替え

すこしずつ部屋の片づけをしている。
仕事で何百ものお宅にあがらせてもらったが、我が家の散らかり具合はちょっとレベルが違う。
断捨らないのでものが溜まる。
とくに私がそのうち売ろうと思っているもの、よく考えずにポチッとやってしまったもの、もろもろであふれかえっている。
ストレスを所有欲を満たすことで解消していたのだなあ、と暇になってみてつくづく思う。
出窓の上に重ねてあった物を整理した。
窓から一本樹が見える。
物で隠れていた。
以前それとは別にケヤキの樹が道の向こうにあってその枝の揺れ具合で風の強さを見当していたのだが、切られてしまった。
したがってしばらく風の具合は洗濯物や実際の窓開けで確認していた。
新たに確認の樹ができたとしばらく見ていたのだが、かなり風があるはずなのにあまり樹が揺れない。
針葉樹のようだ。風を通してしまう。
その向こうにネットが見えるが遠すぎで揺れはわからない。
ほかに電線と雲が見える。窓に結露がある。まだまだ寒い。

2018年2月13日火曜日

日から月

以前 単身赴任をしていたときのお話です

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日から月

月曜日の早朝、午前345分。
日曜の午前0時を三時間四十五分経過した夜中に車に乗って山梨に向かう。
そのような生活をしばらくした。
日曜の夜に家族に見送られて赴任地へ行くのが切なかったからだ。
日曜の夜に行くときは最寄りからバスに乗って駅まで向かい新宿のバスターミナルへ行く。
それがだいたい午後九時四十五分。
明日から仕事だろうにそんな時間でもたいそうな人出がある。
ストリートミュージシャンや買い物帰りのひと。
そういえば後輩で「月曜日の朝八時五十九分まではプライベートの時間ですよ」と豪語し眠らずに遊び歩いていた奴がいたことを思い出す。
今の新しいターミナルになる前の西口の。
バスの出発まで三十分程度時間があり、その時間をいつも持て余した。
ぼんやりカウンターの係員の女の人をみていたりした。
その人は客に対しては絶対に笑顔を見せなかった。
後ろから他の係員に声をかけられて答えるときにはほほえみがてらだったりするのに。
それで任地につくのは午前零時十五分。そこからまたタクシーで七分。
それが嫌になり車で行き来をはじめたのだが、その時間帯にもぽつぽつと車は通行している。
トラックが多いが、普通車の交通もある。多分私と同じような理由の車もいるだろう。
高速で前後にライトが流れる。
この時間帯に一人で車内にいると本当に寂しく、眠くなる。
ナビのテレビは電波を拾わず、ましてそもそも放送休止の時間である。
ラジオもほとんど休止しているがそれでもかちかちチューニングしていると、人の声が聞こえてくる。それは何かの講演であったり、全く聞いたことのバンドがやっている音楽番組だったり、しかし、なにも聞こえないよりはましだ。
単なる音楽だけでは気が紛れない。
人の話し声が無性に聞きたい時間帯なのだ。
バンドの名前は覚えていないが、そのバンドの曲が流れ、リスナーからのメールが読まれる。
午前四時にリスナーに電話をかけると起きてラジオを聴いている。
この間のライブはよかった、とかいついつのライブ楽しみにしています、などと会話して、いつも応援ありがとう、これからも応援してね、とやりとりしている放送は正直全くおもしろくない。
しかしひととひとのやりとりが行われている声が聞こえないよりずっと救われる。
以前、そこまで心もちが弱るシチュエーションと時間帯が月曜の早朝三時から五時の間に私にあった。

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そして 弱いメンタルは時間がたっても直らないのでした

2018年2月12日月曜日

肉じゃがカレー

肉じゃがカレー

肉じゃが三日目、タマネギとジャガイモの味噌汁二日目。お弁当のこりの青物少々。カレーにチェンジする。すべて鍋にあけて、りんご二切れすり下ろし。焼き肉のたれ適宜、ケチャップ適宜、水少し。煮立てたところで袋のカレー(1キロ入り700円のとろけるカレー)大さじ1強、S&Bとインデアン粉カレー併せて大さじ1強。とろみがついたら完成。所要時間十分弱。肉じゃがに甘めの味がしみているのとリンゴ、ケチャップにより甘い、があとからきっちりと辛みが来る。かなり辛い。あっという間に食べ終えてこれを書いているが口がひりひりとまだ熱い。

2018年2月11日日曜日

エアチェック


エアチェック

ユーチューブは時間イーターでいろいろと検索しているうちにどんどん時間が過ぎてしまう。
時折、思い立って1980年頃の日本のロックを集中的に検索する。
そんな中、RCサクセションのパイオニアスタジオでのライブをフルで見つけた。
私は当時高校一年で、その夏は本当に寂しい夏だった。
とくにアルバイトをするでもなく、当時くんでいたバンドの練習もそう毎日やっていたわけではない。
今では信じられないのだが、当時は、いつも誰か人と会っていないと居られなかった。
しかしそうそう毎日誰かに会えるというわけでもなく、退屈して、よく実家の和室に扇風機をまわして寝転がっていた。
そのライブのテープは当時の友人から無理矢理借りた。
音楽はもとよりライブのMCが人恋しい気持ちを癒してくれた。
今回ユーチューブで見つけた音源はそのエアチェックテープよりも格段に音がよく、残念なことにMCがほとんどカットされていた。
しかし、「ラプソディ」や「君が僕を知ってる」などはいろいろな演奏の中でこのライブ音源がベストだと私は思っている。
とくに、G2(ゴンタ2)のアコースティックピアノがすばらしい。
よけいなシンセなどが入ってなくて、R&Bよりのロックバンドの生のグルーヴがよくパッケージンクされたすばらしい音源だ。
しかし、あの高校一年の夏、TDKの一番安い灰色のカセットにエアチェックされた少しこもり気味の、ラジカセで聞いたバージョンが今も恋しい。
鬱屈した倦怠の夏、何度も繰り返して聞いて、とうとう友達に返さなかったあのテープ。あれにその夏の寂しさは随分と救われたのだ。


2018年2月10日土曜日

焼き物


焼き物

焼き物の趣味は特にない。
しかし、陶芸の先生を仕事上知る機会があってアトリエに何度かお邪魔した。
陶芸教室を開きながら、アトリエの隅にカフェスペースがある。
そこに、陶器でできたスピーカーが置いてあった。
私はそちらの方に興味があったので、面白いですね、と言うと、陶器をキャビネットにするとなかなか面白い音がでるんですよね、と言っていた。
確か、ジョーダンという昔の酒瓶のような形のイギリス製スピーカーがあった。
自分でうまくフルレンジでも組み込めば、音はどうあれ所有する喜びは大きそうだ。
その教室は飯岡の海沿いにあった。
近くに、地層が露わになった海岸がある。
このあたりでは平石を石垣に積む。
その石はこのあたりの独特なものだという。
筒のようになっていて、その表面が細かい穴で覆われている石があり、その筒を聞いてみるとさらさらとかすかにノイズが鳴っている。
洗いたての水滴を纏ったコップに炭酸水を注いだようなさわさわしたノイズ。
不思議な石の筒。
あ、あの石、もしかしたらさつま芋のような形状で、すべすべしていたかもしれない。
今思い至った。
そして、その地独特の地層がある。
それを土に使った焼き物を今実験的に試していると言っていた。
試作品を見せていただいた。
ちょっとした和え物などを入れるような小鉢で、深い青、群青を少し薄くした青に螺鈿のようにちらちらと細かい、輪に似た不定形の文様がうっすらと入っている。
これがこの土の特徴らしい。
その地ならでは、とか、試作品、などといった限定性に浮かされたのか、いろいろな角度からその小鉢を手にとって眺めた。
明るみに透かしたり、真上から見てみたり、近づけたり離したり。
これ、いいですね、を連発した。できれば売ってくれないかなと思いつつ。
しかし、そんな裏を見透かしてか、売買の話には触れようとしなかった。
あれから数年経っているが、作品として、売買の対象となっているのだろうか。
いまでもたまに思い出す、あの小さくて深い青の陶器。

2018年2月9日金曜日

ドラムの色


ドラムの色

楽器をやらない人はおそらく、テレビに楽団が写っていても背景としか認識されないだろうと思うが、それが普通。
しかし、懐かしのメロディーみたいな番組では、私なぞはどうしてもドラムに目がいってしまう。
ドラムにも流行すたりがあって、今度見てみてください、ずらーっとたくさんの太鼓が並んでいたり、シンバルがすごく高い位置にセッティングされていたり、逆に太鼓の数がすごく少なくてシンプルだったり(60年代くらいはこういうセッティングしかなかったといってもいい)いろいろとバリエーションがあって面白いので。
ドラムの色についてもやはり流行すたりがあって、バブル世代のひとが小学生の時に使ったセルロイドの下敷きみたいな貝殻の裏みたいな色と模様のものや、普通の白、普通の黒、普通の赤、あるいはヘアライン仕上げの単純ではない青や黒、アクリル製の透き通ったドラムまで、時代によって様子が変わる。
そして、先日、私は今はもう倒産してなくなってしまったアメリカの「ロジャース」というメーカーの(70年代の終わり頃一世を風靡した)フロアタム(床に置くドラム)を入手した。
これで大太鼓、中太鼓と持っていたのでセットが揃ったという案配だが、色が違うのだ。黄色いセットに今回加わったのは黒。
一つだけ色違い。
これはこれでメーカーが同じなのでいいと言えばいいのだが、ドラムセットで一つだけ色違いというのは小太鼓以外は普通はない。
黄色、黄色、ときて黒。
ちょっとみっともない。そこでいろいろと考えてみた。
そして、ドラムの色は車のカッティングシートで代用できるのではないか、という発想に至った。
となればお得意のアマゾンだ。
使えそうな物がいくつか見つかる。
車をラッピングしてしまうというシートが今はいろいろ出回っているのだ。
車関係も新しいことを考える人が居るものだと思う。
それを応用して別の用途に使おうとしている。
このような経験は何度かしているが、思惑がどんぴしゃにはまったときの快感といったら、ない。
今回も吉と出ることを願ってドラムのカラーチェンジに挑戦してみることとしよう。

2018年2月8日木曜日

内勤の四季


内勤の四季

純粋な内勤はつとめていた期間の内三分の一くらいか。
そのほかは外勤、内外半々、なにかにつけ表に出る機会がある職種だった。
季節は外出で知る。
春には桜があちこちに咲き、夏には額に汗をする(とくにがむしゃらに働かなくても)秋には色づく雑木林を見て、冬は昼飯に暖かい物が恋しくなる。
私はそういうルートだったが、どういう訳かずっと内勤のルートを行くひとがいる。
私の勤めていた職場ではだいたい三年ごとに人事異動があり、基本、誰もが何でもやる。私も総務セクション以外はすべてやった。
ずっと内勤のひとの四季はどのような物なのだろう。
何年も屋内にいて、昼休み以外には表に出ることもなく。
見える景色は窓の外だけ。
その窓も、場合によってはブラインドで遮られ、蛍光灯の明かりの下。
机の上に書類を広げ、ディスプレイと書類を視線が行き来する。
電話がかかってきてそれに答え、打ち合わせをし、机に戻る。
それが20年続く。私には耐え難い。
やはり、晴れた日の日中は仕事であれ気持ちがいい。
時間があれば何気ない神社にほんの少しお参りしたり、鬱蒼とした林道の端に車を止めて休憩をしたりする。
五月は栗の花が濃くにおう。
そして思ったより雨が多い。
小雨の林道でフロントガラスの水滴越しに霞む青葉の木立と稲田をぼんやりと見ている。次のアポまで時間があいた。
そんな時にはいやがをにも季節を感じさせられた。
今はいろいろなところのそんな風景、県内のさまざまな林や小径、公園から見える風景ばかりランダムに思い出したり、夢に見たりしている。
ひとと話すことが苦手で、営業などとんでもないと思っていた。
しかし配属はほとんど対人業務だった。
すこしは適応があったのだろうか。
嫌なことが必ずしも苦手とは限らない、が確実に四季毎に心は蝕まれていった。

2018年2月7日水曜日

怒り


怒り

映画やドラマで主人公が、たとえば事務室で机を蹴飛ばす、書類を放り投げる、これ、実際の職場でやらかしたら完全にアウトなのはおそらく勤め人の共通認識。
うまく行かないとき八つ当たり。
気持ちは分かる。
でもやってはだめ。
ドラマや映画でそのような怒りのシーンが出てくると、ああこれは記号だ、と思う。
怒りを身体で表現。
暴力的、破壊的に。
あれらの子供っぽい怒りの表現はそれができない実社会の鬱憤晴らしか。
アンガー。近頃はそれをコントロールする事が大切と唱えられている。
アンガーコントロール。
アンガーマネジメント。
以前、マンガでブタイヌというのが出てきた。
その生き物は豚の顔としっぽ、犬の耳を持つのだが、頭にくると耳で目を隠して怒りを震えながら抑えるという設定だった。
ブタイヌは利口で大人だ。
怒ってもろくなことはない、しかし頭にくることはそこいら中に転がっていて、寄らば斬る、といったストレスフルな日常を過ごす。
自分も社会も世間もすべてが悪い。
もう何もかも気にくわない。
いったいどういうことだ。
そんな風になってなってしまったとき、静電気除去のように怒り除去の装置があるといい。
その装置は儲かりそうだ。
そしてクレームもなさそうだ、なとど引きこもりすっかり外圧によるストレス9割減の頭での平和な空想ビジネスに身を任せてみる午前十時前。
妻が掃除機をがんがんかけている居間。

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ところが 自分の中に思わぬ敵がひそんでいることに このときはまだ気づいていなかったのでした。

2018年2月6日火曜日

知られぬ名曲


知られぬ名曲

1980年アマチュアバンド全盛。
もてたければバンド。
楽器店もそれを全面バックアップ。
コンテストや無料ライブがあちこちで開催される。
それらのバンドの中にはたとえば、スーパースランプがいた。
のちの爆風スランプ。
サンプラザさんは本当に痩せていて、ステージ衣装に浴衣など着ているとたとえは悪いが戦前の病人のように見えた。
異彩を放つ。
リズム隊はおそらくプロではないかと思われた。
他のバンドとレベルが違ったが地元バンド連の中では異端。
「はじける若さ」「穴があったらでたい」という曲が当時の定番。
爆風スランプは別として、れらのアマチュアバンド連は当然、ほとんどメジャーにはなれず、しかし、いいバンドもいくつもあって、記憶に残る名曲もいくつかあった。
それらの曲は数回しか聴いていないのにいまでも時折思い出されて当時の空気とともに頭の中で再生される。
「少年」という曲があった。
少年が家出をして町を離れるという内容の曲だ。
スローテンポの重いビートで、しかしメロディーは覚えやすい。
今から思えばボーカルのひとは少し舌足らずの奥田民夫という感じで、歌は味があり、それらのバンド群ではある種大物感を醸し出していた。
イントロがベースで始まるその曲は少年の家出の情景を歌う。
すべての歌詞を覚えてはいないがサビの部分で「もしぼくがいま死んでも、鳥は歌い、風は吹くのかな」と繰り返されるところはゆっくりとした歌い手の動きとともに今でもよく覚えている。
そのとき、多少知恵がつきつつあった小僧の私は「自分が死んでも世界は今までと全く変わりなくえんえんと続いていくんだよなぁ」と当然の事実を認識し、その諸行無常感が絶えずその後の人生の随所で幾度となく繰り返されてきた。
死んだら自分はそこで終わり。
何もかもすべて無。
あのとき、あそこにいた友達や知らない人たちはあの曲を覚えているのだろうか。
覚えている人の中ではあの歌がたまには思い出されるのだろうか。
とくにどうという曲でもないかもしれない。
しかし「少年」は私の中では「知られぬ名曲」として今のところはっきりと記憶されている。

2018年2月5日月曜日

頭痛持ち


頭痛

小さな頃から頭痛持ち。
幼少の頃は月に一度程度、頭痛にのたうち回り、嘔吐した。
起き方がよくないと頭痛。少し寝不足だと頭痛。目から頭痛。いつも何となく頭痛。
頭痛と生きてきた。
それでも若い頃は一晩寝れば嘘のように頭痛が治ったが、今は頭痛が残る。
頭痛信号も常に感じていて、何かの拍子に頭痛が鎌首をもたげてくる。
緊張性頭痛という物らしい。
偏頭痛の薬を試しに処方され飲んでみたところ、腰が抜けて起きられなくなった。
したがって偏頭痛ではない。
頭痛にも波がある。
毎日頭痛が半月ほど続いたかと思うと、何となく頭が重い程度で頭痛にまで至らない日々がしばらく続く。
痛さにも波があり、本当に時折ではあるが、頭痛薬を飲まなくても直ることもある。
しかし、たいていは、酷くなったら薬を飲む。
外出時には頭痛薬が欠かせない。小さなケースに薬一錠、ポケットに入れていないと不安で歩けない。
ひとたび頭痛になると、いろいろと緩和策を試みる。
思い切り肩に力を入れて抜く。肩をぐるぐる回してみる。首を肩に思い切り寄せてみる。目を押さえる。目に力をいれて思い切り下や上を向くなど。
一時的に頭痛が緩和される。
首を回すのはあまり意味がないらしい。
しかしあらがえなくなればやはり薬に頼る。
それでも効かなければ最後の手段として、熱い風呂に首まで浸かる。
血行の問題なのだろう。
ここまですれば一応直る。
私は運動をするという習慣が人生において無いのだが、それが原因なのだろうか。
体を鍛えると頭痛も治るのだろうか。
頭痛の無い人生がどのようなものか考えられない。頭痛のない人生がとても羨ましい。

2018年2月4日日曜日

古本屋巡り

古本屋巡り

しばらく古本巡りをしていない。
ネットに頼って出歩かなくなってしまった。
お茶の水、早稲田、中央線沿線、たまにはそのすべてを一日かけて回ったりもした。
早稲田の古本屋街は通りに古本屋が点在して整然とした本屋もあれば、雑誌類が雑然と積まれているところもあった。
ひとつひとつパラフィン紙に包まれた純文学の、たしか、平野書店、大切に本を扱っていたがそれほど高くなかったと記憶している。
大変な手間だろうな、と思った。
私は、現代詩集など読みあさっていて、早稲田は結構扱いがあったと思う。
カミングスやアンリミショーは早稲田で求めた。
その頃、探していたのは中井英夫の文庫版「銃器店へ」や山川方夫の文庫本などだ。
そこで捜し当てたか忘れたが、本棚にあるのでどこかで買ったのだろう。
覚えているのは朝吹亮二の「封印せよ、その額に」をどこかの外棚から掘り当てたことだ。
薄い本なので気づきにくかったが、その頃は外棚までくまなく見て回っていたのを思い出す。本にどん欲だった。
とにかく、いろいろな本を読みたかった。
いろいろな映画、絵を見たく、音楽を聴きたかった。
本代を惜しまなかった。
しかし古本が中心にはなった。
買おうか迷ったときに買わなかった本はその後長く手には入らない。
そういったことが重なると、とりあえず買っておかなければ、というある種の強迫観念にとらわれる。そんな中、ついぞ手に入らなかったのが池田得太郎という人の「家畜小屋」という本と小田仁二郎という人の「触手」という本だった。
以前「幻想文学」という雑誌があって、「幻想純文学」という特集の中で紹介されていて、読みたいと思っていたものだ。
今は二点ともネットであっさり手に入れた。
しかしあのころの情熱は失われ、未読となってしまっている。
手に入れて満足してしまった。暇ができたのでいずれ読もう。
それから、いまではめっきり見なくなってしまった背表紙に葉っぱのような物が描かれた講談社文庫は当時まだありふれていた。
今ではあまり読まれない福永武彦や大庭みな子などの作品が文庫化されていた。
それは講談社文芸文庫となり、ど高い値段で新刊になっている。
あとは、早稲田の古本屋でよく見た本で、ミネカイヅカというひとの白い箱に入った「夜の花ざかりまたは小説」という本。
早稲田の古本屋の二つに一つにはあったような気がする。
白い箱に題名と著者名の背表紙。ぞっき本のようなたたずまいの、いまもあの本はあるのだろうか。あれは、どんな内容の本なのだろうか。

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薬が効いて やっとこさ更新しています
いけるとこまでがんばります



2018年2月3日土曜日

80年代Jニューウェーブ回想と書き物その2

前回から続きます


ほかの人が「美術館で会った人だろ」をリクエストすると「今日はリズムボックスを持ってきていないのでできない」と答えていた。
その後も何度か観に行った。
すっかりそれた。話が。
というのも平沢氏の歌詞は風刺的で意味不明の語彙も多く(たとえば「二重思考」という言葉が何度か出てきたが辞書を引いても意味が分からなかった。額面通りに受け取れば本音と建て前みたいなことかとも考えられたが、文脈の中ではよく分からない)なんだか分からないけどかっこいい、と言うのがひねくれものの心情にぴったりとマッチしたのだ。
そして、もろに影響された、といよりかぶれた歌詞を書き殴っては悦にいるというありさまであった。「よく分からないものが好き」というのはここから来ているのかなぁと思う。
その後、全く書き物が興味の対象からはずれて、いろいろして、大学に入ると、自分の基礎教養の無さ、無知さが周りとの会話からぐりぐりと感じられ、一日一冊、本を読むことに決めた。
当時、三冊百円の古本を売っている古本屋がいろいろなところにあったので、手当たり次第手に取ってみたが、結局詩集とか短編集とか、薄く短く読みやすそうなものばかりしか読まなかった。
ランボー詩集など読んだ。私小説、志賀直哉など読んだ。
すると周りがいろいろな本を勧めてくれ、それらを読んだ。作家志望の先輩がいた。
その人は不条理とか前衛みたいなものが好きで、シュールレアリスムなんてのもあるよ、と教えてくれた。結局大学一年の後半から三年に至る間に「谷川俊太郎」から「アンドレブルトン」に飛んだ。
読めば書きたくなった。
読んだら書いた。
書いたら読んだ。
自分は人とは違う、という月並みな特別感に酔い、その悪酔いはさめつつも未だにぶり返しては人生をこじらせにかかる。
ここまで来たらぐずぐす風邪を暖めてつつましく暮らしていくか。

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しばらく前の文章ですが、確かに自分は人とは違う、人と違って大馬鹿だと、無謀だと気づかされている今日この頃です

この話題
おわり

2018年2月2日金曜日

80年代Jニューウェーブ回想と書き物その1

読むから書く

もともと書き物はバンドでのオリジナル曲の為の歌詞を考えていて始めた。
よく授業中につらつらと月並みな言葉を並べた。
当時音楽シーンではパンクが大流行していて、日本でもその流れで、商業音楽とは一風変わったムーヴメントが起こっていた。
東京ロッカーズ、テクノポップ。
とくにテクノの方に惹かれた。
姉の影響でプログレッシブロックに親しんでいたので、当時のスーパー楽器であるシンセサイザーなどが最高にかっこよく思えた。
テクノ御三家(いつも思うのだがこの御三家っていう言葉はテクノには全く似つかわしくない。松平?)といえばプラスティックス・ヒカシュー・P-MODELという3バンドをさした。
YMOは別格だった。
三バンドともコンセプトは全く別なのだが、シンセサイザーを使い、ピコピコしている点でくくられた。
プラスティックスが一番ポップでおしゃれな感じと思われていたのではないかと思う。
四人囃子の佐久間正英がシンセを弾いていた。
ヒカシューは歌詞に知らない言葉がたくさん出てきて知的、当時の自分の言葉で言うと「頭良さそう」に思えた。
レトリックとか、エゴンシーレとか、何それ、でもかっこいい、と言う感じ。
しかしやはり一番しっくりきたのがP-MODELだった。
ものすごくスリリングで危ない感じがする音楽だった。
人間のピートに機械ビートを重ねたり、スパンとはじけるピコピコサウンドや、ストーカー心理を思わせる危ない歌詞が当時の都会派と思っている田舎の高校生の心をしっかり鷲掴みにした。
当時、銀座にオーディオ会社の無料ライブ会場があって、そこで生で見た。
ギター兼ボーカルの平沢進氏はどんなにエモーショナルで激しい動きをしても全くリズムが狂わなかった。
動きはダイナミックでテクノ=静のようなほかのバンドとは正反対たった。
ステージの時間が決められていたのだろう、少し早く終わってしまったようで「何かリクエストありますか?」と平沢氏が呼びかけ、「トップシークレットマン」(プラスティックスの曲)と叫ぶとその一角の他の観客から笑いが漏れたが、平沢氏からは無視された。
当時の自分は今、叱っておいた。 

次回へ続きます

2018年2月1日木曜日

剥げた楽器


剥げた楽器

ギターやベースなどは弾いている内に必ず傷が付く。
古い楽器の場合は塗装が剥げて木がむき出しになる。
それをぼろいギターと見るか、いい感じにヤレているな、と見るかはおそらく人それぞれだろう。
新品で買ったギターで練習して、一通り掃除をしてケースにしまう。
そして、またケースから出して練習し、一通り掃除をしてケースにしまう。
その内に手が滑ってテーブルの角にギターをぶつける。
幸い割れはしなかったが小さい楔型の傷が付いた。
いい気になってじゃかじゃかやったらピックのあとがいつの間にか線傷になっている。
そのころにはもういちいち掃除もしないし、ケースにもしまわない。
ヘッドのあたりに埃がたまり、指板には爪のあとがつき、とりあえず簡単なコードは全部押さえられるようになっている。
その先は本人の熱意と努力次第だが、こうして楽器は傷やはがれをまとっていく。
真新しい楽器ももちろんいい。
しかし、歴戦の鬼軍曹のようなたたずまいのギターやベースを見ると愛おしく思えてくる。
同じギターでも同じふうには傷つかない。
たとえ、量産された古い国産ギターでも枯れ方、育ち方が全然違ってくる。
中学生の時にフェンダーストラトキャスター1957年サンバーストのデッドストックを楽器屋で見たことがある。
いくらの値が付くかわからないと店員も珍しがっていた。
生まれてから、弾かれることなくずーっとケースで眠っていたギターだ。
美しすぎるミイラみたいなものだろうか。
いま、私の手元には死蔵された楽器がたくさんある。
いつかは壊れて使えなくなる日が来るのだろうが、いい感じにヤレて、しかし弾かれずに年輪を重ねられずにいる。
かといって1957年のストラトのように貴重なモノは持ってはいない。
昔買えなかった楽器を折りにつれ集めてきただけだ。
みんな一点モノ。
傷もこすれもはがれもへこみも、世界に一つだけのヤレを纏う。
その価値を少しでも感じてもらえる人に譲り、楽器たちを解放していきたい。