そもそも、仕事を副業と考えていたので、残業は時間の無駄としか思えなかった。正直、おつきあい残業もあった。総残業時間の四分の一ぐらいか。残業をしない仕事に全霊をかけていた。そしてそれが出来る職場だったと主観だが思う。それなりの成績は残業をせずともあげてきた。ただ、私がしなかった残業の分が誰かの仕事のしわ寄せになっていなかったとは言い切れないので、残業の多い人を非難は出来ない。事実としては、残業が少なかったので、多い人よりは給料がグンと少なかったこと。これだけは言える。残業の時間、緊張感のない、たゆんだ時間、別に友人でもない職場の人間と遅くまで机を並べる時間が本当にいやだった。好きで残業をしているわけじゃありませんよ、本当は早く帰りたいですよ、と誰もが言った。残業は人についてまわるとみんなが言っていた。しないひとはしない、するひとはする。これは自分の居た職場だから言えることだったかもしれない。転職してきた人間は、なんて楽な職場なんだろう、と口々に言っていた。私も前職に比べて格段に楽だと思った。しかし長年いるうちに慣れて、他の職場の事をうまく想像できなくなっていった。しかし、つけない残業というか、残業に含まれるかどうかという微妙な時間、たとえば、始業前の仕事の段取り(私の場合は朝起きたときから出勤時間含め仕事段取りの構築で頭の中がいっぱいだった)などは脳内残業なのでつけられない。医学的所見のない疼痛症のようなもので、記録できない。仕事は副業と考えていても、いつも心の中に残した仕事や懸案が決して少なくない割合で場所をとっていたが、それは給料をもらって働く以上誰でもそうだろう。そのようなことを考えると、仕事が人生の大半の時間を使い、仕事=人生となる、またはそう思わなければやってられないというのはもっともな話だ。私はそうは思えなかった。それなりの仕事はしたと思うが忘れてしまった。そしてもうそれなりの仕事をしていく自信も気力もなくなった。別の事で勝負したくなってしまった。会社はそんな人間を出したいと考えた。思惑が一致した。こうして残業も、副業も趣味も休養も本業もごちゃごちゃの無秩序な世界の入り口に入った。
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