たぶん心から仕事がおもしろい、と思ったことが一度もない。それは不幸か幸か、よくわからない。いわゆる勤めから離れて、書き物をしたり相場の監視をしたり、たまに微調整したりで、何とかしはじめてしばらくたった。相場で稼ぐのは完全に個人的内的労働で、情報や決断など、判断を迫られる場面に事欠かない。そして数値でその日の結果がすぐ分かる。プロセスや手法はあまたあっても結果はひとつ、増えたか減ったか。今のところそれが自分の生にあっているかどうか分からないが、何かを人のせいにしたり、恨んだり、そういうストレスは完全になくなった。いわゆる組織での孤立とは質が全く違う。すべては勝ちのためにある。では今までいったい何を仕事で学んできたか。あまり思い出すことができない。ただ、仕事という時間の枷があったからこそ、余暇の密度が濃かったのは確かで、いまよりすべての娯楽が輝いていた。男の価値は仕事で決まる、といえば私の約三十年は無価値に近いかもしれないし、それでサラリーと退職金を持っていったのはあるいは不当といわれかねないかもしれない。しかし、その時間を、大切な人生の時間を就労時間に捧げたと考えれば、通勤やつきあいなどのその付随時間も含めて、売り渡したと考えれば、いや、それにしても対価は高いような気もする。仕事帰りに空想した甘美な夢の生活は急速に色褪せ、PCには移りゆく数字ばかりが赤に青に並んでうつろう。一畳半のコックピットのようなスペースに根をおろして、たまにキーをいじり、文面を綴る。それらを続けていく果てに何がおこるのか。思い描いた方向に人生が進むのか。その方向はどこか。わかっていたようでわからなくなっている。
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