粉っぽい
食べ物が粉っぽくなくなった。舌触りがよくなったというか、癖のある粉っぽいカレーが懐かしい。上にグリンピース(これもどう言うわけか粉っぽい)がのっていて、コップに入れたスプーンとともに供される。いまでもあの粉っぽいカレーの匂いはたまにどこからか匂ってくることがある。ただ、外食でカレーを食べる気にならないのはなぜか。ごはんのうえにカレールーをかけたものという、盛りつけの手軽さが外食に似つかわしくないとどこかで思っている。外食するなら、メインの品に付け合わせ、スープや味噌汁などの汁物がついていないと、とただ単に貧乏性なのだろうが、ラーメン単体、カレー単体、と言う外食はあまりしない。従って、昔ながらの昭和のカレーは、東京下町の古くからの喫茶店などにひっそりと温まっていそうだが、まだ、探索には着手していないし、するかどうかも怪しい。やはり、自分の中のたかがカレー、という思いが行動を妨げる。ひととき、自分で再現できないだろうか、と缶入りのカレー粉を何缶がアマゾンで取り寄せてみた。一番近いのは定番のS&Bの赤缶だった。しかし、少し苦いような、鼻に抜けるような、昔のカレーの癖の片鱗は窺えるのだが、辛く、香りも洗練されている。そうだ、洗練されている。今のルーものは小麦粉を感じさせない洗練された味になっている。たとえば、ハウスのクリームシチューも先日食べて愕然とした。あのしょっぱい、粉っぽい感覚はどこいった? たまたま作り方がいつもと違ったのしれない。牛乳を入れすぎたとか、煮込む時間が短かったとか。粉なっぽいルーは冷めたときにひび割れる。カレーもシチューも割れる。膜が張り、それが破ける。艶消しの表面の膜の裂け目から、冷めていない中身がトロリとのぞく。スプーンで差し込み、口に運ぶ。カレーの場合は米とともに。シチューの場合は、単体で。そしてその後にご飯を追い運ぶ。シチューに関してはご飯にかけてしまいたくない。おかずといえるか微妙な食べものだが、小さい頃、それはおかずとして認識されていた。父はシチューを食べなかった。農の出の父には家畜の餌に見えるらしかった。白いとろみの中にみえるオレンジの人参。人参も昔に比べ癖がなく甘くなった。ピーマンも、トマトも、牛蒡ですら。嫌いな部分は改良されてきた。と言うことは、カレーの粉なっぽさや癖味は、改良されるべき部分であったということか。多数決では少数派は多数に従う。多数決と資本主義。たかがカレーで何を世迷いを。そういえば肉も昔は今より堅かった。それで固まりの肉は嫌いだったのだ。豚肉も癖がなくなった。そして柔らかくなった。そのうち、何もかもが甘く、柔らかく、そして手軽になるのではないか。食にこだわりのなかった私は、若い頃はそれでもよかった。しかし、一度一度の食事に「おいしさ」というよりは「充実感」を求めるように年とともになっていって。食事で「損失感」を味わいたくない。癖もまずさも、「かみしめ」たい。父は経口での栄養摂取ができなくなり、食事がかなわず死んでいった。いま恐ろしいのは感覚器官が、特に目と口がだめになっていくことだが、誤嚥気味にむせることが多くなって、五十過ぎて。
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