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2020年10月14日水曜日

舌と耳

 舌と耳

 

偏食と言うこともあり、舌に

は全く自信がない。しかし、だしに魚が使われているのはわかる。形がなければ、別に食べられないわけではない。魚は、原型に近いほど、調理がされていないほど駄目だ。加工されていれば食べられる。そういう意味でわがままな偏食で、しかし、偏食のひとにはどこかしらそのようなところが有ることは共感してもらえるだろう。味がわからない。旨い、不味いの基準の舌がない。多分に育ちという環境が舌を作るのだとは思うが、味の感性は教養だ、というようなことを言われると教養が私にはない。たとえば、一年ぐらい、最上の米や豆腐と、きちんと手の尽くされた味噌汁で暮らしてみれば、この年からでも舌を作れるのだろうか。それとも、名店と言われる店を食べ歩きに歩いて、育つのが舌と言うものなのだろうか。いずれせよ、今の食生活で何の不自由もない。舌が育っていないからと恥をかく機会もない。それと同様に、音に関しても耳に教養がいるのだろうか。オーディオに関して言えば、セットで百万円程度の音は聞いたことがあるのだが、有る程度ボリュームをあげればどんなセットでもそれなりの音が鳴る。また、スピーカーを変えるだけで音は全く変わってくるし、コード一つ、電源一つでもきっぱりと音が変わる。いい音、というのも多分に主観で、そもそも重音楽たるクラシックのオーケストラ演奏を聴かないことには耳の教養などというのもはばかられ、ロックの中のほんの少しのピックのノイズが聞こえたからとそれがいい耳なのかわからない。音も舌も極めたとして、それが極みなのかおそらく私にはわからない。それが自分の教養度の表明なのならば恥ずかしい限りだが私は無教養ということになる。

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