大人の男がやりたがること、それは、いずれもこねる。叩いてもみしだきこねる。そばと陶芸
。勘違いしなさんな。何故、そばを打ちたがるのだろう。まず、最後にそばを食すという官能を満たす報酬がある。それは分かる。また、なんとなく、そば粉をこねて、押して、まとめて、という作業には邪念を払う適度な身体性が有りそうだというのも分かる。無心と集中。この、無心、というのがやはり肝だろう。無心。勤めていると無心を恋うる。たまの休みに、何もかも忘れて無心に何かに集中したい。で、そばにはそれがある。そのような仮説が思い浮かぶ。勤めを辞めると無心もむなしい。いつも無心であり無心ではないようなものだ。オンオフ切り替わらずいつも何かに追われている。不意に浮かぶアイディアに振り回される。そのような状態の基にこねられたそばはぶつぶつきれてのどごしどころではないだろう。陶芸は体験したことがある。やはり、こねる、のばす、形にする、というところに人を夢中にさせる要素が多分に含まれている。最後に器として実用物ができあがるのもいい。そう考えた場合、無心と報酬がやはり人を引きつける要素としてそばと陶芸に共通するものだと考えられる。それを応用して何か新しい物が出来ないかなどと考えて結局私はどちらの完成も失敗するような気がする。
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