カルガモが渡る
いつかは戻る。資本主義の命題が発展と言うならば、下がった価値は、価値を持つのならばまたあがる。それが言い当てられないので個別銘柄に投資しない。有望そうなところの指数へ投資する。そうすることで時間は大幅に短縮できる。そう考えてどしっとしていられれば、おそらく、どの分野でもそれなりの成果を上げられただろう。そうできないところに葛藤が生じ、人生が苦しくも楽しくもなる。苦しみを楽しめる強さを身につけたい。そういうたぐいの知性が欲しい。夏場は調整の季節だ。先に、どのような状況が待っているのかわからない。つい先日、ロンドンの晴れ間について思いを馳せたばかりなのに、南方の、荒々しい台風に心身がかき乱されている。なにもできない。したところで気休めにすぎない。ならば、そういう気持ちを記録しておくぐらいしか、とれる身動きがない。今、すぐ、どういうと言うことはない。せいぜい眠れない夜に見舞われるくらいだ。生きることの属性に苦しみがあるということを身に満たし、生きている感覚がむき出しになる。大袈裟な悲観、相場の特性でもある悲観を味わいつつ書き留める。ふとしたきっかけで有象無象、魑魅魍魎が湧き出してくる相場という渡世。泡沫の日本の片隅の、よちよちとカルガモ投資家が、渡る車道を窺っている。
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