終わりについて
個人は時代の移り変わりをせいぜい百年しか見ることができない。何とかいう理論では変化は最後に近づくにつれ速度的にも内容的にも著しく加速するということらしい。徳川三百年、維新百五十年と考えると、日本国の変化もこれからめまぐるしく速度を上げていきそうだ。既得権を持つ層の表面上の瓦解、労働、制度、組織形態、どのような変化を遂げていくのか。あるいは戦争が勃発してすべてがリセットされるのか。戦争についてはおそらく、なにかしらの大きな被害が私にも及ぶのは不可避と思われ、絶対に勃発してほしくない。そのような個人的な理由から戦争はいけないとは強く思うがその思いは自分の中でだけ強い。できれば誰とも衝突せずに生きたい。今までが衝突の連続だったから。ここのところ、終わると言うことに考えが及ぶことが多い。自分のいた職場もいつかは終わる。私のいた職場は今年、創立六十年だそうだ。私は二十七年前に就職したので、創立三十周年を迎えてしばらくした、世間的には景気のいいときに入ったという訳だ。創立五十年あたりからリストラにおびえて、給料も下がっていったが、今のところ、希望退職でしか退職者を募っていない。これからのことを見据えて、と広告で言っているが、いつかその役目を終えて企業としての寿命を迎えるだろう。そうなるならば、そのときをできれば看取りたい。見届けたい。そのとき、どんなことを自分が思うのか、どんな感情がわき上がるのか、おおよそわかっているつもりだが、生きているうちにそれを確かめてみたい。
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