メモについて
ここのところは打ち合わせにノートを持って臨むというのが仕事上の流行だった。メモ帳ではなくノート。あれは私の回りだけだったのか。とここまで書いて、FXのシステムがエラーを起こした。アイネット証券!!! 機会損失どうしてくれる? サポートセンターの電話も探せないし。こんなことがあったので早々に口座を引き上げることにする。さくっと。で、話を元に戻すと、メモ。仕事上取ったメモは日時などねスケジュール以外、なんのことかよくわからないことが多い。雰囲気でペンを走らせて、「機会」なんて言葉に二重丸がつけてあったりする。何だ? 今は、いくつかの場所にノートとペンをおいて思いついたことは何でも帳面に付けている。ほとんど単語ばかりだが、それでもそこからずるずると何を考えたか手繰れるのでビジネスの時よりは今の方がメモ役立つ。吉岡実という現代詩の巨匠がいて(知っていますか。詩人と言えば谷川俊太郎、あとせいぜい大岡信が辛うじて知られているぐらいですよね。その筋ではとてつもなくすごい人なのですが)メモは取らないと言う。そのとき浮かんだ想念が本当に自分に重要なものならばメモにしなくても必要に応じて浮かんでくる、と。それを読んで、なるほど、と思い、プライベートではしばらくメモを取らなかったことがある。仕事上ではもちろんとった。重要な想念など仕事上一つもなかったので。メモを取らない結果、どうなったか。凡人には二度浮かんでくる重要な想念などなく、なんか、凄いこと思いついた、という感触ばかりが残って忘れたことをもったいなく思うという不毛な状況ばかりが何度も去来した。従って、今ではとりあえずメモをとる。コロッケ、とか蚊帳、とかVHSとか脈絡のない単語がノートにぽつぽつと散らばっている。それが文章に発展することもあれば、エピソードの一つとして散りばめられることもある。今、散髪という単語に二重丸がつけられているがどうしてかもう思い出せない。
0 件のコメント:
コメントを投稿